雨 と 遭 遇 と
必然を決めるのは誰か、偶然を決めるのは誰か。……其れは自分自身だ、神なんて居ない。


 雨の日だった。
 昏い日。
 ボロボロの侭帰ろうとして何処かの路地裏に辿り着いた。
 記憶は其処で途切れている。



 雨の日だった。
 深夜。
 切れて仕舞った煙草を買いに行った帰り。
 普段通らない様な路地裏を通ったのは何か感じたのだろうか。
 或る建物の勝手口に附けられたコンクリの階段に凭れ掛かる様にして子供が一人、落ちていた。
 良く見ると傷だらけで、辺りは雨に薄められた赫色の水溜まりが出来ていた。
 雨に冷えたのか血が引いているのか、或いは両方か。
 暗闇の中に浮かび上がっている蒼白い顔の瞼は頑なに閉じられている。
 ……顔は綺麗な造りをしている。年齢も未だ幼いだろう。
 此処で見殺しにするのは惜しいかも知れない。
「……そやなぁ、将来に期待っちゅう事で。」
 独り呟くと其の少年を担ぎ上げた。
 顔附きを見るに一寸気が強そうで、そう簡単に懐いて呉れないかも知れないが、其れは其れで面白いか。
「仔狼……位、が理想なんやけどなぁ。」
 適度な警戒心と適度な信頼。其のバランスは大事だ。
 其の位の方が扱い易くて面白いだろうから。
 口元だけで笑って、深夜の路地裏を家へと向かった。


 * * *


「……っ、」
 突然目が覚めて、一番に認識したのは打ちっ放しのコンクリートの天井。
 自分は寝かされていたのだと理解する。
 ……然し何故。第一此処は何処なのだろう。
 取り敢えず周囲を確認する為に起き上がろうとするが、先刻の仕事中に軽からざる傷を負ったのを思い出した。
 其れに配慮してゆっくり身体を動かす。
「……ぇ、」
 然し、予想に反して全く痛みが走らない。
 不審に思って衝動的に飛び起きる。血が足りていないのか、瞬間、眩暈がしたが何処にも痛みは走らない。
 着ているのは薄地で無地の蒼い浴衣、……勿論、自分が着ていたモノではない。
 恐らく、此処へと連れて来た人物が着替えさせたのだろう。
 恐る恐る、其の袖を捲ってみた。
 ……無い。無い。
 有る筈の傷跡が、傷口が全く無い。左腕の刀傷も、右腕の銃弾が掠った傷も。驚き、裾も捲り上げる。
 ――右の腿を貫通した筈の弾痕さえも消えていた。
「…………有り得ねぇ。」
 若しかして自分は今迄夢を見ていたか。
 ……莫迦莫迦しい。
 短く溜息を吐くと、自分の状況を知る為に周囲を――部屋の中を見廻した。
 何の変哲も無い普通の部屋だ。天井と同じくコンクリートが打ちっ放しの壁。
 何処かの雑居ビルだろうか。窓には黒のブラインドが掛かっている。
 水の当たる音がしているから、未だ雨は降っているのだろう――若しくは止んで、亦降ったのか。
 時間が解らないけど。
 視線を彷徨わせて、眉根を寄せた。此の部屋は、物が無い。
 四、五十畳程の長方形の部屋。中央から少しずれた窓際に、アルミパイプで出来たキングサイズ……よりかはデカイベッドが唯一つ。
 其れだけだ。
「……何だ此の部屋。」
 無駄の限りを尽くした様な此の空間は。
 全体的に灰色の部屋の中で黒のブラインドと紺のベッドシーツが鮮やかだ。
 不図思う処が有って、裸足の侭床に下りる。ひやり、と冷たさを感じた。
 壁等と同色なのでてっきり床も同じコンクリートなのかと思っていたら、僅かに柔らかいリノリウム張りだった。
 ひたひたと足音を立て乍窓に近附く。ブラインドの途中に指を差し込み、押し下げると独特のかさついた音がした。
 其の狭い間から外を見ると矢張り雨が降っている。明るさから云って夜ではない。……朝か昼か夕方か。
 指を抜くと今度は横に垂れていた紐を引き、ブラインドを半分位開ける。四角く切り取られた光が薄暗かった部屋の一部を照らす。
 三階……否四階か。そんな事を思いつつ窓に手を掛ける。
 かたん、と軽い音がして(ロック)が外れる。
 横に押せば音も無く滑らかに開いた。
 冷たい雨粒と風が僅かに吹き込む。
「誘拐、監禁の類……ぢゃあねぇな……。」
 手足が縛られている訳でもないし繋がれている訳でもない。況して窓が簡単に開く。逃げて呉れと云っている様なモノだ。
「……否、別に逃げようとか思ってる訳ぢゃねぇけど。」
 誰に云うでもなく呟いて。
 窓を閉めようとして手を伸ばした其の時、突然廻り始めたドアノブの音に思わず身を固めた。



 一階の医務処で作業をしていたら、四階(うえ)で物音がしたのを聴いた。
 ベッドのスプリングが軋む音。寝返りを打った程度ぢゃない、彼は飛び起きた時の音だ。
「眼ぇ覚ましよったな……。」
 見える訳でもないのに、無意識に視線を天井へと向ける。
「取り敢えず、茶でも持って見舞わななぁ。」
 持っていたペンを置き、カルテの束を纏めて仕舞う。
「ローズマリィ、寝室辺りの錠外したって。」
 特に何処を見る訳でもなく。……勿論誰かが居る訳でもないが。
『……良いのですか、』
 落ち着いた、良く通る女性的な声が何処からともなく聞こえてくる。
「良えよ。別に捕まえとる訳ちゃうし。逃げる気あんなら逃がしときゃぁ。」
 まぁ、逃げへんやろけどなぁ。
『解りました。……解除しました。』
「おーきに。……代わりにローズリィフはセキュリティレヴェル上げたってな。」
『承知。』
 先程とは亦別の、少し低めの男性的な声が応答する。
「ほなら、行こか。」
 医務処を出て階段を上がる。エレヴェータも有るには有るが、一度三階で飲み物を取らないと不可ないので使わない。と云うか、今迄一度も使った事はない。何せ階段を使った方が早いのだから。
「どんな仔やろなー。」
 意識を取り戻しただろう少年に思いを馳せつつ呟いて、三階の冷蔵室に入る。其処から麦茶の入ったボトルと氷を取り出すと、併設のキッチンにグラスとトレイを取りに行く。
 銀のトレイに一式を乗せ、亦上の階へ向かう。



 無機質な扉が開く。
 少年と青年の視線が合った。少年が身を強張らせて動きを止める。――一瞬、青年の動き迄止まった、が。
「良えよ、そない警戒せんでも。」
 直ぐに青年は薄く笑うとベッドの上に持って来たトレイを置き、自らも坐った。
「俺はアヤメ。駿河アヤメ云うん。……自分は、」
 アヤメが足を組み乍問うた。ベッドのスプリングがぎし、と鳴る。
「……アーサー。」
 アーサーと名乗る少年は警戒を緩めない。
「アーサー、な。まぁ、取り敢えずの処は詳しゅう訊かんけどな。」
 アヤメはトレイからグラスを取り、麦茶を注いだ。
「ん。水分摂っとき、……心配せんでも何も変なモン入ってへんから。」
 ひらひらとグラスを持った手を揺らし乍差し出す。暗琥珀色の液体がゆらゆらと踊った。
 少年は恐る恐るアヤメに近附くとグラスを受け取り、閑かに飲み始める。
 其の姿を満足気に見て。
「……なぁ、躯の調子どない、」
 頬杖を突いて少年を覗き見る。
「……嗚呼、悪くない。」
 そう素っ気なく返すと少年は麦茶を飲み干し、グラスをトレイの上に置いた。
「治療は、貴方が、」
 亦適当な距離を取る少年に、苦笑を漏らしつつもアヤメは丁寧に答える。
「嗚呼、見えんかも知れへんけど。俺一応医者やねん。」
 今度は自分用に麦茶を注ぎ乍足を組み替える。
「で、路地裏でボロボロになっとった自分見附けて。何や放っとけんで、勝手に連れ帰って勝手に治療させて貰たわ。」
「否……其れに就いては、礼を云う。」
 少年は緩慢に御辞儀をした後、不図訝しげに云った。
「失礼だが、貴方の歳は、」
「嗚呼……“若すぎる”、」
 アヤメは語尾上げでうっすら嗤う。
「十八や。……そうやな、自分位の歳に免許取っとるさかい。」
 そう云うとアヤメはグラスを傾けた。
「…………スルガアヤメ……。」
 少年は口の中でそう何度も繰り返していたが、突然驚いた様に眼を見開く。
「覚えが有ると思ったら……駿河綺雨、か。」
 信じ難い、と云った声音の其れにアヤメの形の良い眉が一瞬動く。
「名前の音、年齢……十代前半で医師免許を取得した事。毛髪と虹彩の色が付随していた画像と違うが……そうだとしたら、」
 少年は其処で言葉を切る。
 やや下を向いていた蒼い光は、ゆっくりとアヤメの其れに合わせられる。

 ――貴方は、死んでいる筈だ。


 * * *


 一階の扉が開く。
 男性が一人、柔らかな黒い髪を風に揺らして入ってくる。
『警告……無許可の侵入は認められない。早急なる退去を要求する。さもなくば攻……』
「……――Entrer.」
 部屋全体に響く姿の見えない青年の声に被せる様に、男性は低音で唱える。
『レヴェルAの優先コード及び音声を確認。対象者一名に対して凡てのセキュリティシステムを解放。』
「……御苦労、ローズィズ。」
『……貴方……は、』
 驚きが混じった其の声にふわり、と微笑んで歩を進める。真っ直ぐエレヴェータに向かうと、迷わず四階の釦を押した。


 * * *


要注意人物ライブラリ(レッドリスト)、やな、」
 アヤメはそう云って空になったグラスをトレイに置く。
「矢っ張り……、異常しいと思ったんだ。」
 少年は僅かに身構える。
情報(ディタ)は“死亡”と締め括られているのに、頁が残っている事が。」
 不自然だった、と。
「ふぅん、警吏庁も莫迦や無い、か。」
 ――其の可能性は考えとったんやなぁ。
 アヤメは興味無さ気に呟くと、間を置いてから口の端を上げた。
「で、国営機関のライブラリは一般公開されてへん筈やけど。……如何云う事や、」
 至極愉しげな其の様子に、暫く躊躇っていた少年は、腹を括ったのか真っ直ぐな視線を向けた。
「其れは、」
「仕事の関係で調べさせたんだ。其の仔は迚も頭が良い。国営機関程度のセキュリティなら軽々突破する。」
「……っ、」
 少年の声に被せる様に、突然現れた黒髪の男性が喋った。ドアを閉じ乍続ける。
「ウチの仔が世話になったな、駿河君。」
 礼を云うよ、と。
 暫し固まっていた二人の内、先に動いたのは少年だった。
「ユーリッ、」
 そう叫び乍、男性に駆け寄りしがみつく。
「……ローズィズ、何で許可してない奴が入っとんのや、」
 ――然も、居住スペース迄。
 アヤメは極々落ち着いた声音でローズィズに訊う。
 そして、其の返答を待たずに視線の先の――多分年上だろう――男性に問うた。
「誰や、自分。」
 が、其処に、女性と男性の声が先の質問に答える。
『申し訳有りません、(マスタ)。』
『……レヴェルAの優先コードを確認した。因って今、彼に対して凡てのセキュリティシステムが解放されている。』
「何やて……っ、」
 レヴェルAの優先コードを知っとんのは。
 アヤメは信じられないと云った風に視線を空から眼の前の男性に移す。
「製作関係者……、セリウムの知り合いか自分……。」
「嗚呼、独り仕事が好きな彼にしては例外的に。私は、彼の作るプログラムの感情制御を任されている。」
 ――まぁ、ローズィズは自我持ちだから殆ど弄ってないがね。
 そう云い乍男性は、自身の後ろに隠れて仕舞った少年の頭を撫でた。其れに、少年は気持ち良さげに眼を細める。
「……そうだ、名乗るのが遅れたね。失礼した。私はアキノ、ユリア・アキノだ。」
 アキノでも、ユーリでも好きに呼ぶと良い、と男性は肩を竦めた。
「ユリア、アキノ……、」
 アヤメは訝しげに眉を顰める。
「何処かで……聞いた、か、」
「其れとも。」
 悩んでいる風のアヤメに、ユーリが続けた。
「秋乃侑里、と名乗った方が解り易いか。」
 そう云って笑う。
「なッ……、」
 アヤメの顔色が途端に変わった。目の前の存在が信じられないとでも云う様に。
「ルー。」
 ユーリは自身の腰にぴったりくっついた少年を呼び、亦頭を撫でた。少年が、アヤメに名乗ったモノとは別の名で。
「……大分傷附いた様だな。」
 呟く様に発せられた其れを聞いたルーは、ユーリを見上げて必死で弁解する様に云った。
「で、でも失敗はしてないから……っ、」
「嗚呼、其れは知っている。」
 部下が確認したからな、と加え。
 落ち着いて、二人を観察していたアヤメはユーリに対するルーの態度に苦いモノを覚え乍口を開いた。
「傷附いたなんてモンや無いわ。放っときゃ失血で命落としとったかも知れんのに。」
「……ほぅ、其れは。」
「自分が其の仔に何させとんかは知らんけど、力量超えた無茶させるんは、」
 止めろ、と、アヤメが続ける前に突然ルーがアヤメに向かって噛み附いた。
「黙れっ、ユーリは悪くない……ッ、」
 其の様子にアヤメは眼を細める。
「ユーリの事悪く云うんぢゃねぇ、ユーリは何も悪くない。……俺が、使えないだけだ……っ。」
 ルーはアヤメを睨み上げ乍、低いトーンで唸る様にそう続けた。
「ルーファス。」
 其れ迄黙って傍観していたユーリが溜息を吐き乍ルーを呼ぶ。其の声音にルーはびくりと肩を震わせ、躊躇いがちに振り返りユーリを見上げた。ユーリはもう一度、短く息を吐くと、低く、云い聞かせる様に喋り出した。
「もう、何度云った、――信用も信頼も構わない、尊敬するのも良いだろう。……但し、度を超えない事が大前提だ。誰かに依存するなんて以ての外。絶対視はするな、と。」
 淡々と語られる其れに、ルーは口を一文字に結んで俯く。
「此方の世界に身を置くのなら、尚更。他人に好意を寄せる場合は気を付けろ。度を過ぎれば弱点になる。裏切られたり、失った時のダメージは計り知れず大きい。……場合に因っては正しい判断も出来なくなる。」
 ――喩え其れが自身の命の掛かった直面であっても。
 ユーリはそう静かに云い終えると、俯いた侭のルーは其の侭に、今度はアヤメに向いた。
「重ね重ね申し訳無い。此の仔の非礼を代わりに詫びよう。」
 そう云って軽く首を傾けた。
「否……。」
 アヤメは俯いた侭のルーと目の前の氏とを交互に見比べ乍、半ば呟く様に返した。
「其処でだ。更に君へと迷惑を掛ける事になるだろうが、頼みたい事が有るんだよ。」
 アヤメの様子にも気を留めず、淡々と同じトーンでユーリは続ける。
 ――横で俯いていたルーを差し出して。
「此の仔を預かって貰えないだろうか。」
 彼の突拍子も無い発言に、此の場に沈黙が落ちる。
「な、……ぇ、ユーリ……、」
 暫くして漸く意を解したルーが、愕然と眼を見開きユーリを見上げる。
 アヤメは自身の事であるのに、眼を細め無関心な表情で其の様子を眺めていた。
 ユーリは見上げてくるルーの頬を撫で、其の銀糸の前髪を掻き上げ深い蒼の光を明るい翠の光で真直ぐ見返した。
「そろそろ潮時だろうと思う。御前はもう私の傍に居るべきぢゃない。でないと御前が壊れて仕舞うだろう。」
 ――暫く私から離れ、頭を冷やしなさい。新しい価値観を構築するんだ。
 そう締めるとルーから手を離す。ルーは何か云い掛け、口を開いたが直ぐに噤み、亦俯いて仕舞った。ユーリは其の一連を見た後、視線を、冷えた眼をしたアヤメに向けた。
「斯う云う事だ。」
 同じトーン、同じ表情――無表情でユーリは肩を竦める。
 そして相手の返答を待った。
 ――実際の処アヤメには選択権等無いも同然なので、其れはアヤメに腹を括る時間を与えるモノだったが。
「そ、やなぁ、」
 アヤメは一呼吸置いて、前髪を掻き上げると呟いた。そして、腕を組んで暫く考える様に黙り込むと亦ゆっくり口を開く。
「其処ん仔……アーサーかルーファスか知らんけど、預かるんは吝かや無いわ。――唯な、」
 腕は組んだ侭ユーリを指し、片眉を上げる。
「腑、に落ちひんねん。貴方等の事やから見ず知らずの人間においそれとこんな話持ち掛ける訳あらへんし。」
 ――事実、俺ん事は調べ上げとるみたいやし、
 アヤメは溜息を吐くと、其処で一旦切ってルーを一瞥した。そして亦ユーリを真直ぐ見詰めて、云った。
「何で俺なん、」
「嗚呼、」
 ユーリは何でも無いと云った風に返す。
「何人か候補は居たんだ、君以外にも。……此の話は前々から出ていたんだよ。」
 其の言葉に反応したのはルーだった。信じられない、と云う顔でユーリを見詰めている。ユーリは驚いているルーの頭を撫で乍続けた。
「私は、常々部下から“院長は頭が固過ぎる”と云われていてね。」
 其処でアヤメの前で初めて表情を崩し、苦笑を浮かべた。
「私や部下の知り合いで、且つ信用に足る……出来るだけタイプの違う人間を選び上げた結果、君も候補に入った訳だ。」
 厳しい顔でユーリの話を聞いていたアヤメは、遣る気無くそりゃどうも、と返す。そして表情を変える事無く続けた。
「……気になんねん。如何も、貴方等の手の上で踊らされとる感が強ぉて。――否、貴方等の、貴方の背後に在る規模を考えりゃぁ、其れも仕方無いんかとは思うし、諦めるわ。」
 所詮俺かて何の権力も無い唯の餓鬼やし。
 そう云って溜息を吐き肩を竦めた、が直ぐに崩した表情を締め直してきっぱりと云った。
「踊らされとる云うなら、踊り切ったるわ。けどな、一つ、訊きたいんは。……俺が斯うやってルーと出会うた事は“偶然”か、」
 ――其れすらも、仕組まれた事だと云うなら、胸糞悪い。
「……偶然だ。――此の仔が傷を負い、君が其れを見附け助けた。……誰の操作も介在しない全くの偶然だよ。」
 ――そして、必然でもある。
 アヤメの強い其れとは対照的に、ユーリは穏やかに答えた。
 唯、其の言葉にはアヤメが発したモノ以上の強さが込められてはいたけども。
「此の仔は優秀だ。私の側に置いておく事で其れが壊れて仕舞う事は喜ばしく無い。そして此の仔は“私”の傍に居過ぎた。其の所為で視野も狭小に為っている。然し、未だ若い。今なら未だ充分間に合うと思うんだよ。」
 ユーリは複雑な表情をしているルーを一瞥し、其れでも表情の動かないアヤメに視線を向けた。
「そう云う訳だ。“私達”の利潤を求めたモノでない。唯此の仔の事を考えた上の行動だよ。」
 其の眼に偽りの色は見られない。……尤も、上手く隠していると云うのなら別だけども。
 アヤメは溜息を吐く。取り敢えず、其の眼を信じてみようと思った。
「わぁーった、良えよ。正式に引き受けたるわ。」
 ぴく、とルーの肩が震えた。
 此の一言で、彼はユーリの元に居られなくなった。
「……有難う、駿河君。」
 ユーリが穏やかに微笑む、が、其れを制する様にアヤメは続けた。
「唯、其の仔ぉに掛かっとる咒法、探知系も含めて全部解いて貰おか。」
「嗚呼、勿論だ。――此の仔は、君の好きにして貰って舞わない。」
 其の、あっさりとした口振りにアヤメは逆に驚いた。
「本気か、」
「本気だよ。生かすも殺すも君次第だ。」
 ――尤も、殺さないと解っているから預けるのだけれど。
 ユーリは不敵に笑う。其れは丸で、飽く迄主導権を握っているのは此方だと認識させるかの様に。
「……其れでは、明日には此の仔の生活道具一式を届けさせよう。解咒は体調の回復を待ってからだ。」
 ユーリは表情を無に戻すと、ビジネスライクにそう告げる。
 其の様子を閑かに眺めるルーの表情からは、もう、感情が消えていた。
「詳しい事は亦、明日話そう。今日は仕事を放って来たのでね、そろそろお暇するよ。」
 ユーリはそう云って颯爽と扉の方へと歩み始めた。
 然しアヤメの横を擦れ違う時、刹那立ち止まって、小さく斯う囁いた。
 “――彼の仔の瞳は、君の恩師と同じ深い蒼の色をしているだろう、”
「……っ、な、ん……っ、」
 アヤメが其の意を理解し、其の姿を振り返った時には丁度扉が閉まっていた。
 苦い思いをし乍ルーに視線を移す。と、其処には、数分前から微動だにしない格好、表情の侭、閑かに泣いている少年が居た。
「……、ルー……、」
 アヤメは唯ならぬモノを感じて、控えめに声を掛ける。
「何か、」
 するとルーは、今アヤメに気が附いた様に顔を上げ、其れ迄と変わらない調子で答えた。
 眼からは、ぱたぱたと泪が流れる侭に。
「自分……、」
 其れを見てアヤメは訝しげに、眉根を寄せた。
 ――此奴、自分が泣いとるて気附いてへんのとちゃうか……、
「否、……今日はもう寝とき。其処のベッド使ぉて良えから。」
「嗚呼……そうさせて貰う。……Than……k、……、」
「ちょ、ぉ……っ、」
 凡て云い切る前に意識が飛んだのか、ルーの躯はぐらりと傾いだ。アヤメは、其れを何とか倒れる前に支える。
 口元に耳を近附ければ息をしているのが解る。意識を失った侭眠りに落ちたのだろう。
 矢張り血が足りてなかったかと思いつつ少年を抱え上げる。
「……っ、――ローズィズ。」
 アヤメは溜息を吐いた後軽く舌打ちをして、例の、コンピュータプログラムを呼び出した。
『はい、(マスタ)。』
 直様男性と女性――ローズリィフとローズマリィの返事が帰ってくる。
「“ユリア・アキノ”若しくは“秋乃侑里”に関する“ルーファス”のディタ洗いざらい掻き集めろ。アンダァネット使ても構わんから。」
『――承知しました。』
 ローズィズの返事を背中で聞いて、アヤメはルーをベッドに寝かせる。シーツを掛けて、指で泪を拭ってやると小さく呟いた。
「……踊ったるけど、遣られっ放しは性に合わへんねん。」
 硝子の奥の黒の眼が、昏く光った。



 ――其れ其れの思惑を押し流す様に、闇の中、雨は降り続ける。

2005/07(2009/05改稿)

<< back