雨 の 裏 庭
其の人は、地の薄い闇色の長外套と同色のタートルネックニット、ブラックジーンズを纏っていた。


 薄暗い視界。
 降る雨の中、凡てを黒に包んだ姿が一つ。
 ぽつん、と裏庭のほぼ中央に立っている。
 開いた侭の傘は持っているが、其れは地と垂直に為っており、持ち主の身に振る雫を遮る役割を失っていた。

 唯、其の蒼い光は天を仰ぎ。
 視線の先から重力に引かれて落ちてくる水はしっとりとじっとりと。
 縛られず自由に広がっている髪と、時折吹く風に翻る外套を濡らしていた。

 彼の、灰色の湖とは違い此方の雨は暖かい。そう感じる。
 そっと、睫の影を落とし瞼を閉じる。
 傘は、力を失った手を離れ下草の上に転がった。

 暫くすると顔を正面に戻し、何かの獣の様に、顔を振るって雫を僅かに飛ばす。
 そうしてから、白い額に張り付いた長い前髪を掻き上げた。
 ……眼は、何処か虚ろに。

「……此処まで濡れるとは思わなかった。」

 小さく、零す。
 其れは、木葉に当たる雨の音に掻き消されただろうか。
 小さく溜息を吐いて、転がっていた自身の傘を拾い上げると閑かに畳む。

 段々と、其の色に似合う様に水を吸って重くなる外套。
 其れでも前面が開いている為か未だ風が吹けば翻る。
 其れは、歩く時も同様で一歩一歩、雫を載せて輝いている緑の上を進む度にふわり、と後ろへ流れ。

 雨の日に、此処を訪れると何だか奇妙な感覚が襲う。
 俯き、其の感覚を苦笑で去なして唯、歩を進める。
 後数歩で東屋に着く。

 ――屋根の下。其の身に注ぐ雫は遮られた。
 先程掻き上げた前髪はもう既に額へと戻っている。
 其処から伝い落ちる雫が、目尻と頬を撫でて――丸で、泪の様に、滑り落ちた。

 柱に腕を附け身体を支える。
 そして、突っ伏す様に額を其の腕に押し附けた。
 そして、母国語で小さく……絞り出す、と云った風情で呟いた。

「――嗚呼、好き……だったんだ。」

 其れは、過去此の場での……何時か云えなかった言葉か。
 云ってから、零れるのは苦笑。
 ……唯、只管苦笑。

 其の場に崩れ落ちて。

 此の声が届く事はもう二度とないだろう。
 くつくつと、喉の奥から低く零れる笑い声。
 手で覆った顔の下、もう遮られた筈の雨が、伝った。

 此が、最後になるかも知れない。
 否、此が最後なのだろう。
 ……最後に此の場で、此の天気で、此の言葉を云えて良かった。

 ――恐らくは。

 唯、相手が足りなかったが、居ない方が、返って良かったのか。

 漸く収まった苦笑。
 立ち上がって。
 眼は僅かに朱を帯びて、頬には新しく雫の伝った後が有った。

 立て掛けてあった畳んだ侭の傘、掴んで、亦雨の中を歩き出す。
 細かい雨に薄く煙る視界、眼を細めて。
 此の場から、消える様に立ち去った。

2003/12(2009/05改稿)

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