N a m e l e s s .
名付けとは、存在を認め祝福し、そして、縛る行為である。


 暖炉で薪の()ぜる音。柔らかな光の洋燈(ランプ)が温かな空間を作り出している。
 (わず)かにスプリングの軋む音。革本の表紙を閉じる音。
 ――安楽椅子に腰掛けたノイルが、読み終わった本を持った(まま)短く息を吐いた。
 ()れが合図であったかの様に、足下に寝そべっていた黒豹が頭を(もた)げる。
「……久遠(くおん)。」
 ノイルが本を脇に避けて、其の黒豹の名を呼んだ。
 久遠は大きな頭をノイルの膝に置く。
 其れとほぼ同時に、涼やかな鐘の音が部屋の中に響いた。
「誕生日御目出度(おめでと)う。」
 ふわり、と微笑んで。ノイルは久遠の頭を撫でた。
 久遠は返事をする代わりに、気持ち良さげに眼を細め、耳を一度ぱたつかせた。
(つい)でに、出会った記念日。――懐かしいね、思い出す。」
 ノイルはクスクスと笑い(ながら)撫で続ける。

 出会ったのは遙か昔の今日。
 ――雪のちらつく、寒い夜。


 * * *


 街は静まり返っている。
 皆、今宵産まれたとされる聖者の事を想い乍、(また)子供達は贈り物の事を思い乍眠りに就いているのだろう。
 カツ、と硬質の音を立てて誰かの家の屋根に降り立つ。纏っている黒い外套が(ひるがえ)った。
「今宵は、大丈夫……か。」
 聖者の気が一番強い夜だから。
 目を瞑って感覚を研ぎ澄ます。
 自身の方が少々居心地が悪い位に澄んだ、聖なる空気で充たされている。
 ()の分だと“良くないモノ”は現れないだろう。
 此の期間、玄関の扉に柊のリースを飾るのは“良くないモノ”を寄せ附けない為だ。
 其れでも、(まれ)に奴等は遣って来る。聖なる一時(ひととき)を邪魔しに。
 だから此の期間、俺は気を張った月夜の散歩に出掛ける。
 俺の役目は、無粋にも現れた奴等を見附け、早急にお帰り頂ける様交渉する事だ。
 ……要は、此の期間だけの見廻り警備なのだが。
「……。」
 短く息を吐いて眼を開ける。
 其れと同時に聖者の誕生を祝福する教会の鐘が鳴った。
 (おごそ)かに鳴り響く其れを、亦眼を閉じて躯全体で聴く。鳴り止んだ後も(しばら)く余韻を愉しんで。
「今日の見廻りは(これ)で終わりだな。……(いや)、今期の見廻りも終わり、か。」
 開いた目を細めてぼんやりと呟いた。正円に近附いた月を見上げ僅かに微笑んで(きびす)を返す。
 連なる家々の屋根の上を軽々と、外套を翻し乍移って行く。
「――……っ、」
 不図(ふと)、足を止める。
 路地裏の闇が(うごめ)いた、気がした。
「居るの、か、」
 否、邪気が感じられない。奴等では無いだろう。
 ――ぢゃぁ、何だ。
 幾分(いくぶん)眉根を寄せて其方(そちら)へ降り立った。
 狭く、暗い小道。其処(そこ)(まで)近附いてやっと何かの気配を感じた。
 (しか)し、……(とて)も小さく弱い。
 “此方(こちら)の者”か、等と思い乍視線を廻らすと、其れは直ぐに見附かった。
 揺蕩(たゆた)う闇の一角に身を横たえた、美しい獣。
「……黒猫、」
 だが、ともすれば闇に溶けて仕舞(しま)いそうな程、其の躯は力無く其処に在る。
 ――ぞわり。
 何故だか胸騒ぎが起こる。
 初めは微かだった其れは、丸で布に広がる水の染みの様にゆっくりと、然し確実に大きく為っていく。
 何故。そう思った。
 ……思った瞬間には、もう動いていた。
 近寄り、しゃがみ込んで手を(かざ)す。
 微かだが、賢明な命の音が聞こえる。灯火は()だ消えては居ない。
 確かな安堵を覚えると同時に、強く思った。
 ――此の灯を消しては不可(いけ)ない。
 其の漆黒の躯を優しく持ち上げると外套の中に抱き込み、急いで家迄跳んだのだ。


 * * *


 其の小さな命が再び自らの意思で動き出したのは、日が昇り、亦、沈んだ頃だった。
 最低限の生気を分け与え、ブランケットに包み込んで暖炉の近くに寝かせておいたのだ。
 不図気配が強くなった気がして、読んでいた本から顔を上げると、ブランケットの固まりが僅かに動いた。
 其の侭視線を送っていると、ゆっくりとブランケットの間から小さな顔を覗かせる。
 黒い鼻をひくつかせて辺りの様子を知ろうとしている。
 もう大丈夫そうだ。そう思って本を(かたわ)らに置いて立ち上がった。
「……大丈夫か、」
 そっと上から覗き込む。
 黒猫は突然現れたヒトに驚いたのか少し眼を大きくしたが、直ぐに細めた。
“……嗚呼、大丈夫だ。”
「――そうか、良かった。」
 手を伸ばして顎の下を撫でる。
 高く保たれた体温と、判然(はっきり)と聞こえる鼓動が、其の存在を確かなモノにする。
“貴方が助けて呉れたのか、……もう、()の場で果てるモノと思って覚悟していた。”
「……そうだ。偶然路地裏で御前を見附けて……何故か放っておけなかった。」
 低く喉を鳴らす其の姿に微笑み乍「此も何かの縁だろう、」と呟いた。
“嗚呼、貴方が傍に居ると落ち着くんだ。何だか、迚も懐かしい。……前世で良縁だったのだろうな。”
 黒猫の貌が穏やかな笑みの形になる。
 其の言に思わず手を止めた。
 目の前の此の黒猫は、自分と別れ……自分を置いて行った彼等の内の誰かなのだろうか。
 苦笑する。真逆(まさか)、な。――でも、そうだとしたら。
「余程強い縁と見える。」
 苦笑の侭冗談めかしてそう云った。
「取り敢えず、其の躯が万全に為る迄は此処に居ると良い。」
 其の後は亦、好きな様に、自由に過ごせ。此処に訪れる事が有るなら持て成そう。
 そう云って黒猫から離れ、元掛けていたソファに腰掛けた。
“……此処に、ずっと留まる事は出来ないだろうか、”
「何だって、」
 思わず本に伸ばし掛けた手を止めた。
“本来ならもう尽きた命だ。否、一度死んだと考えよう。……此の命は拾った貴方のモノだ。”
「……本気で云ってるのか御前。」
 意図が読めない。眉根を寄せる。
“貴方の好きにするが良い。……私は貴方に仕えよう。”
「……解らん。俺は魔性だぞ。永らく其の傍に居れば御前にも影響を与えるだろう。」
 本は諦めて姿勢を戻す。黒猫の方を見据えて。
「今迄の様な生は送れない。何より……普通に死ぬ事も出来なくなるぞ、其れでも良いのか、」
 真直ぐ黒猫に視線を送る。
 其れでも黒猫は何でも無い、と云う風にぱたりと尾を振った。
“構わない、貴方と同じ様な存在に為ると云うのなら其れすらも厭わない。”
「…………。」
 深々と、溜息を吐いた。
 如何(どう)して()う、俺の廻りには変わり者が集まるのか。
「解ったよ……御前がそうしたいなら自由にするが良い……。」
 ソファの背凭れに躯を預けて力無く云い放つ。
 黒猫が満足そうに笑ったのが雰囲気で解った。
“うむ、ではそうさせて頂こう。……そうだ、貴方の名は、”
 其の後に続けられた自然な問いに、姿勢を正して答える。
「――ノイル。ノイル・サイラス・リース=ロス。」
 自分にとって名前は、大切なモノだった。
「……御前の名は何と云う、」
“……私は“呼ばれた”事が無い。”
 少し哀しげに見えた其の表情に、ふむ、と息を吐いた。

「じゃぁ、御前……名が無いのか、」
 ――何、御前……名前無いの、

 自身の意識の中で、別の声が重なった。
 ……そうか、彼の時と一緒なんだ。
 思わず、口の端を上げて微かに笑った。

「なら、俺が名を遣ろう。」
 ――ふーん、じゃぁ、俺が附けて遣るよ。

 現在と過去が、現実と記憶が交差する。

「……久遠。お前の名は、今日から久遠だ。」
 ――……ノイル。御前今日からノイルな。

 俺は、今、彼奴(あいつ)と同じ貌で笑ってるのだろうか。


 ――何者にも侵されない漆黒の美しさだ。

「闇をも恐れない御前の気高さよ、永遠なれ。」


 * * *


 カタン、と暖炉の薪が折れ落ちた音でノイルの意識が現在に引き戻された。
 緩慢(かんまん)に視線を時計へと移すと、(すで)に長針が一周半も回転していた。
 ノイルは少し驚いた様に息を吐き、そして久遠の頭を撫でた。
「そろそろ休もうか。……今日は夜明け迄には出掛けないと不可ないから。」
 久遠は眼を細めて、同意の意で一度尾を振った。
「一瞬でも遅れたら文句を云われそうだからね。……全く、参られる身分の癖に我侭なんだから。」
 ノイルはそう云って笑う。久遠も微かな笑顔で、ノイルの膝から頭を退けた。
 其れに合わせてノイルも立ち上がる。
「さぁて、今日は帰ってからも予定が入ってるからね……大忙しだ。」
 呟きつつ火の始末をする。然し、其の貌は嬉しくて仕方がないと云った風で。
 話す事が沢山有り過ぎて、たった数時間で足りるだろうかとノイルは零す。
「……じゃぁ、寝ようか。」
 微笑を浮かべた侭、ノイルは久遠を振り返った。
 其れを受けて久遠は立ち上がり、寝室へと先導する。
 器用に扉を開け、其れを潜ろうとした時にノイルの声が背中に落ちた。
「ねぇ、」
 久遠は振り返る。
 ノイルは其の場から動いておらず。少し、困った様な貌で立っていた。
「……“久遠”で良かった、」
 久遠は其の意を瞬時に解した。そして、笑って斯う云った。
「俺は久遠以外の何者でも無い。……良くも悪くも無い、其れが当然なのだろう。貴方が“ノイル”である様に。」



 ――愛しきヒトに与えられたモノは凡て、私の中で宝物に成るのだ。

2004/12(2009/05改稿)

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